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アルテオンはちょっとお色直しとともに新しい仲間が増えました。シューティングブレークとRも仲間入り。どうぞよろしくお願い致します。6月24日、ドイツにて発表されました。 エンブレムデザインも新しいムービングフレームですね。 https://www.youtube.com/embed/RYDULcX-n6k
アルテオンはちょっとお色直しとともに新しい仲間が増えました。シューティングブレークとRも仲間入り。どうぞよろしくお願い致します。6月24日、ドイツにて発表されました。 エンブレムデザインも新しいムービングフレームですね。 https://www.youtube.com/embed/RYDULcX-n6k

フォルクスワーゲンは1937年設立ですが、もとをただすとフォルクスワーゲン準備会社としてその後1938年9月にフォルクスワーゲン製造会社に名称変更をしました。(フォルクワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国有企業として設立されました。)ヒトラーはポルシェ博士が提案した国民車構想の車として設計したType1試作車を「フォルクスワーゲン(国民車)」と称していましたが、最終的に1938年に、「KdF-Wagen(歓喜力行団の車、KdF車)ナチス政権下の国民車」と命名しました。しかし、ドイツ軍の第二次世界大戦敗戦にともない壊滅的なダメージを受け国民車の生産もままならないフォルクスワーゲンの工場はイギリス軍管理下に置かれる事となりました。 その時にフォルクスワーゲンの工場管理者として、イギリス陸軍のイヴァン・ハースト少佐(Ivan Hirst、1916年-2000年)が就任しました。ハースト少佐はKdF車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興へと導きました。その結果、1945年中にはフォルクスワーゲン社が改組され、KdF車も「フォルクスワーゲン・タイプ1」に車名を変更して生産を再開することが出来ました。ハースト少佐は品質管理や販売網・サービス網整備にまで注力し、フォルクスワーゲンの礎を築ました。 そのドキュメンタリー動画がこちらです。(生前のご本人のインタビューもあります。字幕はありませんが、、、戦後間もないドイツ、ドイツ国民の様子やフォルクスワーゲンの工場でのType1の生産過程を窺い知ることが出来ます。限定公開なのでお早めに) The British era at Volkswagen from 1945 to 1949 narrated by Ivan Hirst https://www.youtube.com/embed/VysqC-TEeoU お時間のある時にどうぞ。
フォルクスワーゲンは1937年設立ですが、もとをただすとフォルクスワーゲン準備会社としてその後1938年9月にフォルクスワーゲン製造会社に名称変更をしました。(フォルクワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国有企業として設立されました。)ヒトラーはポルシェ博士が提案した国民車構想の車として設計したType1試作車を「フォルクスワーゲン(国民車)」と称していましたが、最終的に1938年に、「KdF-Wagen(歓喜力行団の車、KdF車)ナチス政権下の国民車」と命名しました。しかし、ドイツ軍の第二次世界大戦敗戦にともない壊滅的なダメージを受け国民車の生産もままならないフォルクスワーゲンの工場はイギリス軍管理下に置かれる事となりました。 その時にフォルクスワーゲンの工場管理者として、イギリス陸軍のイヴァン・ハースト少佐(Ivan Hirst、1916年-2000年)が就任しました。ハースト少佐はKdF車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興へと導きました。その結果、1945年中にはフォルクスワーゲン社が改組され、KdF車も「フォルクスワーゲン・タイプ1」に車名を変更して生産を再開することが出来ました。ハースト少佐は品質管理や販売網・サービス網整備にまで注力し、フォルクスワーゲンの礎を築ました。 そのドキュメンタリー動画がこちらです。(生前のご本人のインタビューもあります。字幕はありませんが、、、戦後間もないドイツ、ドイツ国民の様子やフォルクスワーゲンの工場でのType1の生産過程を窺い知ることが出来ます。限定公開なのでお早めに) The British era at Volkswagen from 1945 to 1949 narrated by Ivan Hirst https://www.youtube.com/embed/VysqC-TEeoU お時間のある時にどうぞ。

先日にフォルクワーゲン・ロゴのお話をしましたが、本日、フォルクスワーゲン グループ ジャパン 株式会社よりブランドデザイン及びロゴ変更の正式なアナウンスがありました。(以下プレスリリース) フォルクスワーゲン グループ ジャパン 株式会社(代表取締役社長:ティル シェア、本社:愛知県 豊橋市、略称:VGJ)は、新しいフォルクスワーゲンのブランドデザイン及びロゴを日本市場で展開します。本日より、フォルクスワーゲン公式ウェブサイトvolkswagen.co.jp を含むオウンドメディアを皮切りに、フォルクスワーゲンの全てのコミュニケーションツールは、この新しいブランドデザインに順次変更されます。今回の刷新は、フォルクスワーゲンのグローバルな方針に則り、環境への負荷も考慮し、段階的に実施されるもので、全国にあるフォルクスワーゲン正規販売店でも今後順次採用されます。昨年9 月のフランクフルトモーターショー(IAA)で初披露された新しいブランドデザインとロゴは、「New Volkswagen 」の幕開けを意味しています。フォルクスワーゲンは電動化、完全なコネクテッド化、そしてニュートラルなカーボンバランスの未来を目指しており、世界的に統一されたこの新しいブランドデザインによって、今の時代により相応しい全方位のリアルなブランド体験を創出します。フラットな二次元デザインの新しいフォルクスワーゲンロゴは、より明確で、本質以外の無駄を削ぎ落としたデザインとなっています。さらに、この新ブランドデザインとロゴは、高い柔軟性を特徴とし、デジタルメディアにもより適合するように製作されました。VGJでは、公式ホームページを刷新し、本日よりこの新ブランドデザインを採用します。さらに、VGJ の本社ロゴや、全国のフォルクスワーゲン正規販売店についても、順次新しいロゴに切り替わります。ビジネスツールについても、新ロゴが採用されますが、環境負荷低減に取り組むフォルクスワーゲンのグローバルな方針に則り、旧ロゴでの在庫が無くなり次第、新ロゴに切り替えてまいります。
先日にフォルクワーゲン・ロゴのお話をしましたが、本日、フォルクスワーゲン グループ ジャパン 株式会社よりブランドデザイン及びロゴ変更の正式なアナウンスがありました。(以下プレスリリース) フォルクスワーゲン グループ ジャパン 株式会社(代表取締役社長:ティル シェア、本社:愛知県 豊橋市、略称:VGJ)は、新しいフォルクスワーゲンのブランドデザイン及びロゴを日本市場で展開します。本日より、フォルクスワーゲン公式ウェブサイトvolkswagen.co.jp を含むオウンドメディアを皮切りに、フォルクスワーゲンの全てのコミュニケーションツールは、この新しいブランドデザインに順次変更されます。今回の刷新は、フォルクスワーゲンのグローバルな方針に則り、環境への負荷も考慮し、段階的に実施されるもので、全国にあるフォルクスワーゲン正規販売店でも今後順次採用されます。昨年9 月のフランクフルトモーターショー(IAA)で初披露された新しいブランドデザインとロゴは、「New Volkswagen 」の幕開けを意味しています。フォルクスワーゲンは電動化、完全なコネクテッド化、そしてニュートラルなカーボンバランスの未来を目指しており、世界的に統一されたこの新しいブランドデザインによって、今の時代により相応しい全方位のリアルなブランド体験を創出します。フラットな二次元デザインの新しいフォルクスワーゲンロゴは、より明確で、本質以外の無駄を削ぎ落としたデザインとなっています。さらに、この新ブランドデザインとロゴは、高い柔軟性を特徴とし、デジタルメディアにもより適合するように製作されました。VGJでは、公式ホームページを刷新し、本日よりこの新ブランドデザインを採用します。さらに、VGJ の本社ロゴや、全国のフォルクスワーゲン正規販売店についても、順次新しいロゴに切り替わります。ビジネスツールについても、新ロゴが採用されますが、環境負荷低減に取り組むフォルクスワーゲンのグローバルな方針に則り、旧ロゴでの在庫が無くなり次第、新ロゴに切り替えてまいります。

世界で最も愛され続けているクルマ、それはビートルです。 フォルクスワーゲンの記念すべき最初のモデルであり、フォルクスワーゲンという企業とブランドを成功へと導いたビートル。その生産は、第二次世界大戦が終結した1945年にウォルフスブルグで始まりました。 当初は、戦争によって壊滅的な被害を受けた工場での少量生産でしたが、1947年にはオランダへの輸出を開始。2年後の1949年に工場の管理権がイギリスからドイツ連邦政府に譲渡されると、ビートルの生産は勢いを増していきました。 1950年代になると、ビートルはドイツ経済の奇跡的な復興に大きく貢献しました。ポルシェ博士が描いた国民車構想は現実のものとなり、世界的なモータリゼーションの急速な普及の礎となったのです。 ビートルは、「クラスを超えた自動車」として多くの人々を魅了し、ドイツ国内の約40%という大きなシェアを獲得、1967年には累計生産台数が1000万台を突破し、1972年にはT型フォードが記録した1500万7033台という驚異的な数字すらも塗り替えてしまったのです。ビートルは、自動車先進国であるアメリカでも高い評価を受けました。今では車名となっている"ビートル"というニックネームを付けたのもアメリカ人で、現在でもなおビートルは、アメリカ市場において高い人気を集めています。 ビートルの正式名称はVolkswagenタイプ1ですが 日本では「カブト虫」 英語圏では「ビートル(Beetle)」「バグ(Bug)」 ドイツでは「ケーファー(Käfer=カナブンやカブトムシなどの甲虫類)」 フランスでは「コシネル(Coccinelle=てんとう虫)」 イタリアでは「マジョリーノ(Maggiolino=大型のコガネ虫)」 ブラジルなどでは「フスカ(Fusca=南米産の大ゴキブリ)」 タイでは「タオ(亀)」 メキシコでは「Vocho(ボチョ)」 など今でも全世界で様々な愛称で親しまれています。 この他にも様々な逸話を残したビートルは、1978年にドイツ国内での生産を終了しましたが、その後メキシコやブラジルなどで生産を続け、2003年7月30日に2152万9464台という大記録を打ち立て60年近い歴史に終止符を打ったのです。 この日、最後までビートルを造り続けてきたメキシコのフォルクスワーゲン・デ・メヒコ、プエブラ工場では記念式典が開
世界で最も愛され続けているクルマ、それはビートルです。 フォルクスワーゲンの記念すべき最初のモデルであり、フォルクスワーゲンという企業とブランドを成功へと導いたビートル。その生産は、第二次世界大戦が終結した1945年にウォルフスブルグで始まりました。 当初は、戦争によって壊滅的な被害を受けた工場での少量生産でしたが、1947年にはオランダへの輸出を開始。2年後の1949年に工場の管理権がイギリスからドイツ連邦政府に譲渡されると、ビートルの生産は勢いを増していきました。 1950年代になると、ビートルはドイツ経済の奇跡的な復興に大きく貢献しました。ポルシェ博士が描いた国民車構想は現実のものとなり、世界的なモータリゼーションの急速な普及の礎となったのです。 ビートルは、「クラスを超えた自動車」として多くの人々を魅了し、ドイツ国内の約40%という大きなシェアを獲得、1967年には累計生産台数が1000万台を突破し、1972年にはT型フォードが記録した1500万7033台という驚異的な数字すらも塗り替えてしまったのです。ビートルは、自動車先進国であるアメリカでも高い評価を受けました。今では車名となっている"ビートル"というニックネームを付けたのもアメリカ人で、現在でもなおビートルは、アメリカ市場において高い人気を集めています。 ビートルの正式名称はVolkswagenタイプ1ですが 日本では「カブト虫」 英語圏では「ビートル(Beetle)」「バグ(Bug)」 ドイツでは「ケーファー(Käfer=カナブンやカブトムシなどの甲虫類)」 フランスでは「コシネル(Coccinelle=てんとう虫)」 イタリアでは「マジョリーノ(Maggiolino=大型のコガネ虫)」 ブラジルなどでは「フスカ(Fusca=南米産の大ゴキブリ)」 タイでは「タオ(亀)」 メキシコでは「Vocho(ボチョ)」 など今でも全世界で様々な愛称で親しまれています。 この他にも様々な逸話を残したビートルは、1978年にドイツ国内での生産を終了しましたが、その後メキシコやブラジルなどで生産を続け、2003年7月30日に2152万9464台という大記録を打ち立て60年近い歴史に終止符を打ったのです。 この日、最後までビートルを造り続けてきたメキシコのフォルクスワーゲン・デ・メヒコ、プエブラ工場では記念式典が開

オイルショックが生んだフォルクスワーゲンの小型ディーゼルエンジンのお話し。 1976年、フォルクスワーゲンは、1974年に発売が開始された初代ゴルフの派生モデルとして、排気量1.5Lの小型ディーセルエンジンを搭載するモデルをはじめてラインアップに加えました。この誕生の背景には、1973年に世界中を揺さぶった第1次オイルショックがあります。原油価格の上昇はドイツ経済はもちろん、走行距離が長いドイツ人の生活にも影響を及ぼしました。その結果、より経済性(ガソリン比で燃費は約2割、CO2は約3割良いとされています)の高いディーゼルに注目が集まりました。初代ゴルフに搭載したの排気量1.5L小型ディーゼルエンジンは、同じ排気量のガソリンエンジンと多くの部品を共有しながら、耐久性(高圧縮、振動対策も含む)を向上させたことで、小型車に適した軽量、コンパクトなエンジンであることに加え、何よりも高い経済性(燃油代とメンテナンス用)が高く評価され、その後の小型ディーゼル車の大きな可能性を世界に示すとともに、市民権を得るようになりました。日本でも同様に、第2次オイルショックの影響を大きく受けた1979年と1980年の2年間、初代ゴルフのディーゼル仕様は、同じガソリン仕様よりも多く売れたという逆転現象まで起きています。
オイルショックが生んだフォルクスワーゲンの小型ディーゼルエンジンのお話し。 1976年、フォルクスワーゲンは、1974年に発売が開始された初代ゴルフの派生モデルとして、排気量1.5Lの小型ディーセルエンジンを搭載するモデルをはじめてラインアップに加えました。この誕生の背景には、1973年に世界中を揺さぶった第1次オイルショックがあります。原油価格の上昇はドイツ経済はもちろん、走行距離が長いドイツ人の生活にも影響を及ぼしました。その結果、より経済性(ガソリン比で燃費は約2割、CO2は約3割良いとされています)の高いディーゼルに注目が集まりました。初代ゴルフに搭載したの排気量1.5L小型ディーゼルエンジンは、同じ排気量のガソリンエンジンと多くの部品を共有しながら、耐久性(高圧縮、振動対策も含む)を向上させたことで、小型車に適した軽量、コンパクトなエンジンであることに加え、何よりも高い経済性(燃油代とメンテナンス用)が高く評価され、その後の小型ディーゼル車の大きな可能性を世界に示すとともに、市民権を得るようになりました。日本でも同様に、第2次オイルショックの影響を大きく受けた1979年と1980年の2年間、初代ゴルフのディーゼル仕様は、同じガソリン仕様よりも多く売れたという逆転現象まで起きています。

2020年6月1日にフォルクスワーゲン本社に隣接する「アウトシュタット」が、早いものでオープン20周年を迎えました。アウトシュタットは同時に開催されたハノーファー万博に合わせて開業。工場見学や新車引取りのために訪れた人々を楽しませるためのテーマパークであり、東京ドームの5つぶん以上の広さの緑豊かな敷地の中に、ポルシェ、アウディ、フォルクスワーゲン、シュコダ、セアト、ランボルギーニ、ブガッティ、ベントレー、VW商用車などフォルクスワーゲングループ各社のパビリオンとして建てられた現代建築が点在しています。パビリオンでは各社が現在販売している全車種の展示も行われています。工場見学をはじめ、屋外には自動車を試乗できるオフロードコースや、子供が電気自動車を運転できるコースなどの様々なアトラクションが点在しています。ここではフォルクスワーゲンの哲学やクルマづくりの歴史、グループ傘下のブランドなどへの理解を深める事ができます。 アウトシュタットはこちらから。 https://www.autostadt.de/
2020年6月1日にフォルクスワーゲン本社に隣接する「アウトシュタット」が、早いものでオープン20周年を迎えました。アウトシュタットは同時に開催されたハノーファー万博に合わせて開業。工場見学や新車引取りのために訪れた人々を楽しませるためのテーマパークであり、東京ドームの5つぶん以上の広さの緑豊かな敷地の中に、ポルシェ、アウディ、フォルクスワーゲン、シュコダ、セアト、ランボルギーニ、ブガッティ、ベントレー、VW商用車などフォルクスワーゲングループ各社のパビリオンとして建てられた現代建築が点在しています。パビリオンでは各社が現在販売している全車種の展示も行われています。工場見学をはじめ、屋外には自動車を試乗できるオフロードコースや、子供が電気自動車を運転できるコースなどの様々なアトラクションが点在しています。ここではフォルクスワーゲンの哲学やクルマづくりの歴史、グループ傘下のブランドなどへの理解を深める事ができます。 アウトシュタットはこちらから。 https://www.autostadt.de/

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