2019/01/25
前回から→
1938年7月3日-最初のビートルが披露されるまで-
今回のブログ、
全く興味のない方はスルーしてください(苦笑)。
主役は政治に興味のない技術者
ヒトラーに対しても「総統閣下」などの敬称を用いずに
「ヒトラーさん」と一般人同様の呼び方をしていた
この純粋な技術者は政治に関心がなかったのだ。
Wikipediaより
1900年のパリ万国博覧会には電気自動車を出品する
ほどで、それまでの功績から"博士"と呼ばれる
政治に興味のないフェルディナンド・ポルシェ。
その才を買っていたヒトラーから観喜力行団を通じて
ドイツ自動車連盟(RDA)との契約で開発した
"ドイツ人民のための車"。
ご存知、これが後のビートルでもあり、
Volkswagen(国民車)の原点でもある。
まず、開発された車の名前
車名はヒトラーにより
「KdF-Wagen」とつけられた。
それから、何度のテストを繰り返し
1938年7月3日、最初のビートルが披露された。
ビートルの名前はニューヨーク・タイムズが
皮肉を込めて名付けたものだった。
ビートル(カブトムシ)は
後々色んな世代から支持され、
その愛称で親しまれるようになる。
2019年で最後を迎えるのは
「TheBeetle」。
最後まで、その愛称を変えることなく
販売を続けてきた。
やっとの最初の一台
・まだ設計案だった1934年。
・ポルシェ個人のガレージで量産にむけ、
有志のチーム結成した1935年に設計と製造開始。
この年10月に最初の車が秘密裏に生産された。
※この年のドイツでの車の普及率は49人に一台だった。
写真はポルシェが開発した最初のフォルクスワーゲン
プロトタイプのセダンとコンバーティブルです。
1936年の中頃、フォルクスワーゲンの生産プラント
を建設する夢は暗礁に乗り上げた。
どうやら関連企業(RDA)が政治的な影響を心配
して二の足を踏んでいたのだ。
そのためポルシェはフォルクスワーゲンの量産計画
をどのように推進すべきかを調べるために、
アメリカに渡った、この視察の結果、出された数字が
年間100万台。その数字はヨーロッパの製造業者を
ひるませてしまったのだった。
(あまりにも高い数字で実際に達成できたのは約30年後の1961年)
約3000万ライヒマルク-1937年-
これは最初の試作車から1938年の最後のプロトタイプ
完成までに費やされた費用。
この時期にこれほどまで、最新技術を駆使した車を
作り出したことを考慮すると、それほど莫大な金額では
なかったようだ。
※4.2ライヒマルク=1ドル
※当時ビートル一台約3000ライヒマルク
現代でいうクラウドファンディング?
1938年9月16日に
フォルクスワーゲン製造有限会社の名前で正式に
会社登録が行われた。
積立はあまり伸びなかったが、製品は積立金制度を
設立して生産された。
つまり、お金を振り込み、完成車が顧客に引き渡される
まで保留される形だった。
まるで、分割のクラウドファンディングのよう。
最初のビートルはその後もテストされ続け、
一般に公表され、宣伝された。
(参考までに、乗員2名、12.6キロを時速34.5キロ。
時間は21分54秒4で走破)
世界最大の工場建設の前夜
その結果、この分野のジャーナリストから
絶賛された。
『これよりもはるかに大きな車で走り、
エンジントラブルがなかったとしても
この行程は25、6分はかかる。
この強さは芸術品といえよう』と。。。
参考資料:フォルクスワーゲンの歴史より
P.S. ビートルはポルシェ個人からどのように
見えていたんでしょう。
この話はもしかすると、フェルディナンド・ポルシェ
の歴史をたどる方がおもしろいかも知れませんよ。
だって、ビートルは彼の生涯の一部に過ぎないから。
P.P.S. ・・・ひとりぼっちの少女、チャーリーが
出会ったのは廃車寸前の車・・・
映画『バンブルビー』3/22(金)公開をお楽しみに!
-------------------------------------------------------------------------------------------